GYホビー

後期高齢者も過ぎた僕GYの人生でとくに記憶に残った思い出を綴ったものであります

2026年10月3日台湾見て歩き⑧ いよいよ八田ダムへ 

                 4月17日

 今回の台湾旅行の最大の目的は八田ダムである。日本技師八田與一が1930年に烏山頭に完成させたダム。コンクリートを中心部にごく一部に使用しただけで、粘土と石を高く積み上げたセミロックフィルダムと言われている。

台南駅から台鉄で隆田駅まで行き、そこからマイクロバスで「烏山頭水庫」までいった。市街地をしばらく走ると大した坂を登るわけでもなく森林の中に入った。ほどなく公園の入口に付いた。このバスでたったの25分である。近いところに存在していた。

きれいな風景の中を進むと右手に排水路が見えてきた。後の小高いところが堰堤だ。

堰堤に登る階段が近づく。胸がわくわくする。緑の堰堤が左右一杯に広がる。

堰堤の上は幅9mの平地で道路も完備されている。

堰堤の左手は広大な水と島々が見える。この島々は空から見るとサンゴのように見えることから珊瑚湖とよばれている。

右手には嘉南大洲と呼ばれる平野が広がる。このダムのおかげで荒れ地を灌漑し水を供給した。ダムに流入する水量はそれでも足りなくて、遠く曽文渓から長大なトンネルを貫いて導水した。さらにはこの灌漑地には水量の絶対量が足りなくて150ha分づつ分割し、これをさらに3分割して稲、さとうきび、雑作を年ごとに輪作して豊富な食料の供給地に変えた。地元への供給だけでなく人口が増大する日本にも輸出した。

 このような供給水量の確保、堰堤の設計、発電、農業の改革まで総統府土木局の八田與一技師が考案し、そのプロジェクトリーダーとして活躍したのである。

彼はその後フィリピンの農業開発のため、大洋丸に乗って移動中アメリカの艦船の攻撃を受け亡くなった。昭和17年5月8日のことだった。地元では毎年この日に慰霊祭を行っている。

 帰りのバスを待っていると偶然居合わせた青年と話しをすることになった。彼は八田與一の子孫という。偶然にしても出来すぎ。5月8日は用事があり慰霊祭に参加できないので本日先にお参りにきたとのこと。名前を仁建志と言った。現在台北の大学の修士課程でこのあと、高雄南部の田舎で労働安全衛生の講演をする。バスも汽車も同席しいろいろと話しができた。

堰堤の左手奥に八田與一の銅像があった。

彼は常に次の構想を練っている姿を表わしている。独自の発想力を持つ人の考える姿


堰堤から遠く離れたところにたくさんの木造平屋建ての家屋がある。八田與一の家。

書斎には彼の妻、外代樹(そとき)の銅像もある。與一の死亡が確認された1ヶ月後排水路に身を投げたとされている。

ともかく日本統治時代日本の国家予算を大きく費やした烏山頭ダム(八田ダム)は今も多くの台湾の人々に豊かさと誇りを与え続けていることがわかった。

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